ブルガダ珍道中  TOP回想≫2004年6月9日〜6月20日

2004年
|6月9日〜6月20日|6月21日〜7月1日7月2日〜7月27日退院後


2004年6月9日
旦那君はいつもと同じように出勤していました。
旦那君は、派遣に似た感じの仕事をしていましたので、週に一回、新宿にある本社のオフィスによってから帰宅していました。
この日はちょうど、本社の新宿オフィスに寄る日でしたので、帰りが遅くなると言っていました。
午後8時頃に一度、旦那君から連絡があり、午後10時頃に今度はわたしの方から連絡をしました。

「今お店に入って、これから会社の人と食事してから帰る」
「了解。じゃ、帰るときにまた連絡頂戴。気をつけてね」
「わかった」

このあと、わたしはテレビを見ながら子供に母乳をあげていました。
そして午後10時30分頃、電話が鳴りました。上記の通り、わたしは授乳中だったので、電話に出れませんでした。(家にはまだ子機がないんです)
いつもこの時間頃に、実家からよく電話が掛かってきていたので、多分それだろうと思っていました。
一回目の電話が鳴り、すぐに二回目の電話が鳴りましたが、それにも出ませんでした。

午後11時ごろ、授乳も終わり一息ついた頃、また電話が鳴りました。出ると、旦那君の実家からでした。


旦那君が、食事中に急に倒れ、救急車で運ばれたと言う電話でした。


一瞬、頭が真っ白になり掛けました。その反面、非常に冷静に話を聴いている自分もいました。
新宿の病院に運ばれ、危険な状態なので、直ぐに病院に来て欲しいと搬送先の病院から連絡があったと言われました。
ただ、まだ子供が小さかった(漸く生後1ヶ月)ので、わたしは実家で待ち、旦那君の両親と旦那君の二番目のお兄さんが病院に向かいました。

午前1時頃、お兄さんから電話がありました。
「落ち着いて聴いてね」
そう言われ、一瞬、最悪の結果が脳裏を過ぎりました。が、一命は取り留めたと聴き、心底安心したのを憶えています。

お義父さん達が、到着した病院で聴いたのは、次の通りでした。

 ■ 午後10時半頃、食事中に旦那君が急に倒れ、意識不明の状態に陥ったため、救急に連絡。
 ■ 救急車が到着した頃には心拍・呼吸とも停止状態で、救急車内での心電図のから、心室細動を確認。
 ■ 搬送先の救急救命センターにて除細動処置(電気ショック)により、蘇生。
 ■ 119番通報から旦那君の蘇生までに、約21分掛かったため、脳へのダメージがかなりあるだろうとの判断から、
    蘇生後、脳低体温療法を実施。

とにかく旦那君が生きているというだけで、良かったと思いました。


2004年6月10日
旦那君が搬送されたのは、新宿にある東京医科大学病院でした。
救急救命センターの面会時間は、12:30〜13:00、18:30〜19:30の2回だけで、それ以外の時間は面会出来ませんでした。
この日は一番目のお兄さんとお義母さん、そしてわたしの三人で行きました。

脳低体温療法の旦那君を見るのは、本当に辛かったです。
麻酔で眠っているので意識はなく、鼻には管が入り、呼吸器を着けた状態で、ベットに横たわっていました。
脳低体温療法の為、身体は冷たく、少し硬かったです。
身内に不幸があった人は判ると思うのですが、亡き人の感触に似ていました。

ピッピッという心電図の音と、シュー、シューという呼吸器の音。腕に刺さった、沢山の点滴。
今でも、旦那君の寝顔を見て思い出してしまうことがあり、その度に胸が詰まります。

脳低体温療法は、脳には優しいけれど、反面内臓への負担は大きいそうです。その為、治療時間は24時間が限界だそうです。
とにかく目覚めないことには、脳にどれ位障害が残っているのかなどは判らないと言われました。
また、蘇生までに時間が掛かったので、最悪の場合、目覚めない可能性もあると言われました。

お義母さんは身体がそれ程丈夫でない為、夕方の面会にはひとりで行きました。
看護婦さんが、何でも訊いて下さいねと言ってくれて、嬉しかったです。

わたしが出来る事といえば、祈る事と、とにかく声を掛け続ける事だけでした。
目が醒めることを信じ、祈り、他愛の無いことを旦那君に話し続けました。
自分の事や子供の事。これまでの事、そしてこれからの事。
とにかく楽しいことを、ずっとずっと話し続けました。


2004年6月11日
脳低体温療法が終わり、徐々に体温を戻していく処置をしていました。
脳低体温療法時、34度位に保たれていた体温を、少しずつ元の体温に戻していくとのことで、この日は35度を目安に戻していました。
先生の話だと、こちらの思い通りに進んでおり、脈拍・血圧ともに安定していると説明されました。

明日、徐々に麻酔を切り、旦那君が目覚めるのを待つとの事でした。


2004年6月12日
多分、この日の感動は、一生忘れないと思います。

昼の面会時、病室に入ると、旦那君の呼吸器が外れていました。
声を掛けると、目を開けて、わたしを見てくれました。次の瞬間、わたしは心から笑って旦那君に抱きついていました。

わたしが声を掛けると、口を開けて、わたしを呼んでくれました。(実際は声が出ず、「あー、うー」状態でしたが、口の形から推測して、わたしの名前を言っていると判りました)

私のことも、生まれた子供のこともちゃんと判っている様子で、本当に、本当に嬉しかったです。

夕方の面会の時には、ベットが移動していました。
低体温だった反動で、熱が出ていました。高熱がでることは、前もってお医者様から説明を受けていましたので、それ程気にはなりませんでした。
熱でボンヤリするのと、鼻から入った管が気持ち悪いのと、一番は麻酔がまだ完全に切れていないのでしょう、ボンヤリしていました。
沢山の点滴をしていて、そのため手を固定されていました。それが嫌だったのか、しきりに腕を動かし、外そうとしていました。


2004年6月13日〜20日
最初のうちは、まだ熱でぼうっとしていることが多かった旦那君ですが、再度ベッドが移動した頃には、随分意識がはっきりしていました。
15日からは、食事が摂れるようになりました。この頃になると、しっかり目覚め、会話も出来るようになっていました。

意識がはっきりしてからも、3〜4日間は、脳機能障害がありました。
心肺停止からくる低酸素脳症とのことで、記憶が無くなっていたり飛んでいたりしました。
具体的には、
 ・自分の年を50〜60代だと思っていた。
 ・子供の年齢が判らなかった。
 ・夢と現実の区別が付かない。
といった感じでした。

それでも、蘇生までに掛かった時間を考えれば、これ位で済んだのは本当に奇跡的だと、色々な方から教えられました。
もしかしたら一生、目が醒めないかもしれなかった事を考えれば、本当に運が強かったのだなと、改めて思いました。

旦那君の容態が多少なりとも落ち着いたので、ネットで『心室細動』を調べ始めたのが、ちょうどこの頃です。
ブルガダ症候群という病気も、心室細動を調べている過程で知り、自覚症状などから「もしかしたら……でも、まさかなぁ……」と、思っていました。
そして先生から、「ブルガダ症候群かもしれない」と告げられ、あぁ、やっぱりそうだったのかという気持ちでした。
前もって調べたのと、一番最悪だった状態を乗り切ったのとで、取り乱したり落ち込んだりはしませんでしたが、「キツイなぁ」と感じたのも、正直なトコロです。

一度心室細動が起こってしまったので、おそらくICD(埋め込み式除細動器)を入れることになるとの説明も、この時ありました。


脳機能障害が見られたので、先生の方から、『高圧酸素療法』をしてみようという話になり、6月21日から東京医科大学八王子医療センターに転院となりました。


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